関西CX
吉田さんとアップで20分ほどサイクリングして試走へ
これは無理だと思った
気管支がやられて これは無理だと思った
ホテルへ戻り シャワー浴びてさっぱりして
朝飯食べて
シマノ自転車博物館へ
行列できるかと思ったが 並んだのは僕だけだった
10分前だったけれど 寒いので中でお待ちくださいと言われ
学芸員の和田さんが案内をしてくれた。
先ずは6分間の映画を見る
5人乗り アワーレコード49キロだったらしい
シマノのエアロパーツ
少し前でいう TREKのブレーキ構造
シマノは昔からこういう事に取り組んでいた。
今回 ここを訪れたかったのは これを見たかったから
僕の大好きな自転車
TREK OCLV
ヘッドはKING ステムはDEDA
このホイールは最高だった
シマノのこのホイールも最高だった
思わず笑顔になるね
学芸員の和田さん
僕がこの自転車は ジロデイタリアを勝った メンショフが乗っていたかもとか説明したら
一台一台写真を撮って スマホの、メモ帳に書いていた。
後で勉強して来場者さんに説明するんだと言ってました。
いまいち売れなかった エアー変速機
これは名品だった
手元で変速できる DURAACEの登場
日本での初お目見えは 西日本実業団の鈴鹿サーキットで行われたレース
当日大雨で シマノレーシングの村岡勉選手がこれを付けて走っているのはほとんどのレーサーは知らなかった。
当時のブレーキシューは ARAYAのリムに対して開発していたから マビックのリムを使うと止まらなかった。
僕が使い始めたDURAACE
クランクが硬かった
クランクが細くなり 踏みやすくなったけれど
ワールドチームのポルティ所属のルックルブランが こんな柔らかいクランク使えない!と言って
上のクランクを使っていた。
なので 7800からはクランクが中空になり
BBの構造も変わり 剛性が上がった
そして電動が登場
シマノの黒歴史と言われた7970シリーズ
改良された 9000系
ディスクになった
そして今の12速
どうして右の棚が空いているのか?分かりますか?と聞かれたので
「まだまだDURAACEは続くという事ですか?」と答えたら
「その通りです」と
DURAACEの宣伝ポスターのキャッチフレーズが
「たった一人の勝者のために」
ジャッキーデュランは大逃げをする選手
1992年「ツールド フランドル」で217キロを逃げて 勝利
17歳の時 このポスターを見て いつかこんなガッツポーズをしたいと思った
僕が競技の世界へ入るキッカケになったポスターです。
どなたか持っている方おりませんか?
シマノの広報へ聞いてもらっておりますが 心当たりある方教えてください。
博物館館長の 神保さんに このポスターありませんか?と聞いたところ
貯蔵館から探し出してくださいました。
違うポスターではありましたが感動しました
この写真を撮ってくれた方は リマサンズで一緒にレースをしていた
こまっちゃんの奥さんでした。
僕の事もよく知っておりました(笑)
再度探してくるから待っていてと 探してくれましたが 無かったみたいです。
シマノは僕の青春時代そのものですとお話ししました。
常にマスクはしてましたが この時は外しました
大阪で友達とご飯を食べて
夕飯ある?と聞いたら 肉が無い鍋はあるよと言うので
肉を買って帰宅
栄養付けて ちゃんと寝よう